第6回 身体への自覚(2)




 
身体への自覚が俳優の所作を創り、空間占有の力を付けさせのだというお話をしました。では、身体への自覚を身に付けるためにはどのような鍛錬が必要なのでしょう。

 日本舞踊やダンス、茶道や華道など形を重んじる稽古事が身体所作の鍛錬によいのはすでにお話しました。手足の爪の先にまで神経を尖らせる。意識して所作を行うという点で、すこぶる最適な鍛錬法と言えます。他者と直接接することなく、一定の間合いを計りながら向かい合う剣道、空手なども身体所作の鍛錬には向いています。間合いをどうとるかで、人間同士の緊張関係が微妙に変化することが生理的に、空間的に体得できるからです。

 しかし、こうした稽古事や格闘技、あるいはスポーツを通じて、己の身体を意識する鍛錬をしながら、すべてがすべてそれを舞台上の演技に生かすことができていないというのが現実です。それは、そこで身に付けた身体所作や身体への自覚を演技に結び付ける回路の取り方がみなさんに自覚されていないからです。いつも申し上げているにように、そうした古典的な身体所作、構え、形と「役」という制約の中で演技するということがみなさんの中で繋がっていなければ、鍛錬と現実の演技とは乖離したままです。

 これも身体への自覚がないために、鍛錬と日常を結び付けられないのです。

 私たちは日常生活の中に、実は多くの構え、形を持っています。簡単な例を上げれば、箸や茶碗の持ち方、お茶の注ぎ方や飲み方、ナイフやフォークの使い方、椅子の座り方、挨拶の仕方、歯の磨き方etc…。注意して日常生活を振り返れば、私たちは、様々な所作を繰り返していることがわかります。

 しかし、それが日常的であるがゆえに、そこで繰り返されている身体所作に自覚的になることがほとんどありません。それは、それらの所作が生活そのものであり、そうした日常の所作を改めて意識したり、その所作を自覚する必要がないからです。

 それゆえに、稽古事や古典的な身体所作を通じて、身体を自覚するという鍛錬を行いながら、日常生活と同じエチュードを課題として与えられると見事に油断して、普段の生活の中で無自覚になっている生活動作を繰り返し、せっかく身に付けた身体所作を与えられた課題の中で生かすことができなくなってしまうのです。

 第1回の構えと形、そして決意で、俳優が人前で何事かを表現するというとき、非日常へ向かうための決意が必要だと述べました。与えられた課題、あるいは与えられた演技が実生活に近い日常的な設定であればあるほど、実は、この決意を強く、深く持たなければなりません。

私たちの仕事は、あるがままをあるがままに描くことではありません。すでにお話したように、虚構を用いてより確かなリアリティへ辿り着き、空間造形として観客に示すことが仕事です。だとすれば、日常的な設定であっても、それは日常をなぞればよいのではありません。それすらも、演技するという非日常、虚構なのです。そのときに、身体への自覚、意識がなかければ、観客はただ、俳優の日常所作を見せられているに過ぎず、到底、演技と呼べる代物ではなくなります。

俳優が日常的な設定を演じているのであり、そこには、日本舞踊などと同様、普段の生活にはない身体への自覚、意識がなければなりません。そして、これまで述べてきたように、そのことによって、何事かを観客に幻視させなくてはならないのです。

日常的な設定、日常的な所作を日常的な感覚で生きないためには、日常の所作を離れて見る目が必要です。そして、古典的な所作やスポーツの構えや形の美しさと同じように、それを身体所作の構え、形としてどう観客に示すかを自覚しなくてはなりません。そうすることによってありがちな、誰もが知る日常の所作が演技へと昇華していくのです。

 では、日常的な身体所作にを演技に結び付けるために俳優が意識し、自覚しなければならないことは一体何でしょう。

 それはリズム、音楽です。

 舞踊はもとより、華道や茶道などの身体所作を軸とする立ち居振る舞い、スポーツのアクションも一定のリズム、つまり音楽性を持っています。日常の所作においてもそれは同じなのです。ただ、普段の生活では、それを意識していないに過ぎません。

 たとえば、みなさんは、オーディションに遅れる、撮影現場の集合時間に遅れるといったとき、当然ながら、目覚めてから出掛けるまでの日常的な行動のリズムは普段のそれとは違っています。時間的なゆとりがあるときには違うリズムを刻みます。人は日常生活の中で、同じ所作を使いながら、実はリズムを変えて、その時の状況に相応しい速さ、テンポを生きているのです。

 身体への自覚を持ちにくい日常的な設定や課題に遭遇したとき、この生活の所作が持つリズムを意識すると自分が普段意識できていない、日常生活での使い慣れた所作を離れて見ることができます。簡単に言えば、感情表現は後回しにして、まず、日常の所作を「リズム運動」という形にし、日常とは異なるものとして、自分の身体に自覚させるのです。そうすると、いままで演技をしなければと役柄や設定ばかりに気を取られて、身体所作に目が行ってなかった縛りから自由になり、ここでの所作をどう演技として観客に見せるかということに集中できるようになります。つまり、身体所作を通じて何事かを表現するというスタートラインに立てるのです。

 しかし、それだけでは「役」という制約を生きることはできません。しかも、私は、役柄のらしさを演じようとしてはならないとみなさんに教えています。感情表現からではなく、身体所作を通じて普遍的な感情表現、つまり、見所(観客)から見たときそう見える演技へ辿り着けと教えています。では、単なる「リズム運動」を役に結び付けるためにはどうしたらよいのでしょう。

 そのために必要なのが音楽です。

 ここで言う音楽とは、身体所作がつくる「リズム運動」にストーリーを持たせるということです。音楽にはテンポがあります。リズムがあります。しかし、音楽が音楽であるためには主旋律が必要です。アレンジも必要です。他の役者さんとの絡み、つまり、アンサンブルも必要となります。そうしたものが一人の俳優の身体所作に現れたとき、単なるリズム運動だったものに、音楽の進行と同じようにストーリーが見えてきます。

 先程の例で言えば、朝、寝坊して出掛けるまでの慌しい時間、起きる、出掛ける用意をする、出掛けるという中に多くの身体所作が想定されます。自分の身体を自覚するために、その一つ一つの所作をリズム運動化してしまえば、日常的なものとは異なる形が出現してきます。しかし、そこに役という制約があれば、慌しい時間のリズムが一定であるはずはありません。だれがやっても同じ慌しさ、同じリズムを刻むのであれば、それはまさに体育での集団のリズム体操と同じです。それが役へと転換できるのは、そこに、フォルテもあれば、ピアノシモもある、つまり所作の強弱があり、ポーズもあるからです。あるいは、慌てて転ぶというディスコードもあるかもしれません。

 私は、秘すれば花・見えざるが花なりという項目の中で、俳優の仕事は、意味性を伝えるのではないとお話しました。「この人はこうだろう」というらしさを演じるなとも教えました。それは、つまり、言葉として説明できるものを演技にするなということなのです。論理性や意味性に依存した、説明芝居を用いない。にもかかわらず、観客の生理に訴えるにはどうしたらよいのか。

 その答えがリズムと音楽にあるのです。

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