第4回 空間占有 −離見の見・見所の見ー 


                     
 秘すれば花・見えざるが花なり」という世阿弥の演技メソッドを実現する上で、俳優が自覚し、鍛錬し、体得しなければならない重要な技があります。

 それは、余剰なもの、過剰なものを排除し、一輪の切花たらんとするとき、一輪の切花の自然の姿と自然界の一部として存在していた空間を観客に幻視させる力です。

 みなさんは、普段の生活でこんな体験をしたことはありませんか?

 その人がそこにいるだけで、場の空気が変わる。無意識に視線を注いでしまう。その人の一挙手一投足がなぜか気になる。その人の発言に周囲の関心が集まるといったことです。外見の問題は無論ありますが、それ以上に、「その人がそこにいる」というだけで、強い存在感を感じるという体験です。俗に、そうした体験を与える人を私たちはオーラのある人と言ったり、存在感のある人と呼んだりします。

 ここで言う存在感のある人というのは、たとえば、偶然出会った異性に恋心を寄せるといった類のものではありません。同性でありながら、こうした印象を持つ。あるいは、個人の趣味や関心の範囲ではなく、そこにいる多くの人が同じ印象を抱き、一瞬ではなく、その人がその場にいる間、継続し、いなくなってもその存在感の余韻が残る。その人が違う場に登場しても、やはり、毅然とした存在感を保っているといったケースです。

 これはどうしたことから起きているのでしょう。

 たとえば、車の運転をするとき、私たちは車をまるで自分の体の一部のように操ることができます。自分の身体空間より大きい車を他の車にぶつかることなく、狭い道も進むことができます。もちろん、こうした感覚は、教習所に通い、トレーニングを繰り返すことによって獲得できるものです。では、ここでのトレーニングとはどういうものなのでしょうか。

 実は、これは、自分の身体を越え、身体感覚を車の外郭にまで広げる訓練なのです。

 車を運転するとき、私たちは、自分の身体の一部でもないのに、ハンドルやブレーキ、アクセルやギア操作を通じて、無意識に身体を越え、身体感覚を車の外にまで拡大しています。だからこそ、安全に車を走らせることができ、手足のように車を操作することができます。ところが、すぐにこの感覚を身に付けることができません。そこで、教習所では身体空間を広げるために段階を追って、この感覚を身に付けさせようとするのです。ハンドル操作やブレーキ、アクセルなどの操作はこの感覚を身に付けるための技術に過ぎないと言ってもいいくらいです。

 つまり、人は身体の範囲のみで日々の生活空間を生きてはいないということです。

 たとえば、私たちは他者とどういう関係にあるかによって、その人との間合いを生理的に決めています。関係の深さ、関係のあり方によって、その人との座る位置関係や距離を決めたり、そのときの他者の関係の状況。険悪な状況であるとか良好な関係にあるとかでも微妙に位置や距離を調整しています。動物が自分の縄張りの一定の範囲以上を越えて他の動物が侵入するとこれを威嚇するというのも同じです。

 私はこうした現象を「空間占有」と呼んでいます。

 これは、人が状況や事情に応じて、自らの占有する空間を大きくしたり、小さしたりしながら、他者との関係を生きているという身体の生理のことを意味しています。

 冒頭の例にあげた、存在感のある人というのは、空間を占有する身体的な能力を生来持っているか、経験的に身に付けている人です。場の空気を掴む、つくることが達者な人と言ってもよいでしょう。人の視線に晒され、身体を通じて何事かを表現するという俳優にとって、この空間占有の能力は非常に重要です。

 一輪の切花という余剰を省き、抑制の利いた存在として舞台にありながら、その背後に広大な時間と空間を幻視して見せるためには、舞台上、画面上に視覚化されていない世界を観客に実感させる技が必要だと述べました。その技こそが、この空間占有なのです。

 では、この空間占有はどのような鍛錬によって、身に付け、自覚し、それを意図して使えるようになるのでしょう。

 そこに必要なのが「離見の見」「見所の見」です。

 俳優がひとつの演技を所作として示すとき、「らしさ」を追求をすると客観的な基準を持てないで、自己満足の演技になると第2回の秘すれば花で述べました。そして、俳優や演出、監督から見える「らしくさ」を追求するのではなく、観客の視点から見たとき、所作がどのように機能しているかを検証せよとも述べました。実は、そのために必要なのが、自らの所作を離れて見ることによって、見所、すなわち観客の視線、第3者の眼を持つことなのです。

 自分を離れて見る。簡単なことのようですが、感情表現から演技を組み立てていると、この離れて見るということがなかなかできなくなります。感情を生きようと懸命になるほど、人間の生理は一瞬、役と同化したような錯覚に落ち入り、自己陶酔を起こし、自分の演技を客観視することができなくなるのです。簡単に言えば、ベタな芝居の土壷に嵌ると、そこから抜け出せなくなる。

 しかし、演じている側には、感情の隆起があるために、それが観客から見たときどのように見えているか、実感されているかの冷静な眼を失います。稽古場で見ている演出や監督も同じように同化してよき演技と錯覚してしまうのです。その結果、俳優の意識は内面へと向かい、身体空間の占有は非常に狭いものとなって行きます。あるいは気持ちの赴くままに、手足を動かし、あるいは必要以上に歩く、座るなどの動作を起こしてしまいます。一輪の切花どころか、余剰で過剰な芝居を観客の前に示してしまう結果となってしまうのです。そして、その余剰さ、過剰さがますます占有する空間を狭めてしまいます。

 空間を占有する力にもっとも大切なのは、所作の大きさではありません。意識の向け方、持ち方です。

 自分は身体所作を通じて、どのような空間を造形しようとしているのか。その造形はどのように視覚化され、視覚化された結果、観客に自分が造形しようとした空間が伝わっているか否か。これをまず意識し、自覚することが必要です。その上で、その演技において、自分の身体空間をどこまで広げべきかを判断し、意識をその方向、その広さへと調整するのです。そのことによって、観客の眼を操ることさえ、俳優は可能となります。

 みなさんが観客として舞台の前に座ったときのことを思い起こしてみましょう。舞台をみつめる眼というのは、映像のカメラの眼ではありません。しかし、みなさんは芝居の流れや俳優の演技によって、視線の位置を変え、場合によってはカメラのズームレンズのように、ある役者の表情や所作に集中したり、あるいは、舞台全体にズームバックしたり、パンしたりしています。つまり、観客は平板な舞台を全体で観ているのではなく、カメラの眼のようにして舞台を観ているのです。

 これを逆の視点から考えてみるとこういうことになります。

 俳優は、自分の演技をどのように見せるかを意識し、自分の演技=意識をどの方向に向けるかによって、観客の眼の動きを操ることができるといういうことです。それをより高度に発展させることのよって、観客の眼を自分という俳優に集中させることも可能となります。すなわち、存在感のある俳優として、そこにあることができるようになるのです。

 このための鍛錬法として、私は、大きな所作の鍛錬をワークショップで繰り返し行います。しかも、一つ一つの所作は日常的で簡単なものに限定し、それを日常では取り得ない、舞踊のような形として課題にします。

 そこには、まず、身体への意識を指先まで、つま先まで持つということがねらいとなります。自分の身体を自覚するという鍛錬です。次に、所作を大きくとるということで、ひとつの身体所作が身体を越えた空間まで占有できるという実感を体得させます。

 そして、セリフ術の鍛錬に使う、がまの油売りの口上など、定型的で感情表現のひとつもない台詞を使い、身体所作を行うという課題へ進ませます。つまり、夜店や実演販売の口上を所作をつけて演技させることで、空間を占有し、見る者の意識を引き付けるという鍛錬を行うのです。

 このときも所作がどう観客に見えるかに俳優それぞれがどのような工夫を凝らしているかを注視します。その他にも自分の身体と空間を占有するためのさまざまなトレーニングを行っていますが、基本の鍛錬としてはこうした自己の身体を自覚し、広げるということを行うのです。

 そして、いくつかの段階を経て、日常的な所作のエチュードへと向かいます。一旦、空間を大きく占有するという大きな所作を経て、その所作を現実的な所作へと移し変えさせるのです。実は、こうした過程を経ないで、日常的な所作、日常的なエチュードから入ると、これまで再三述べて来たように、染み付いたリアリズム芝居から抜け出せないばかりか、自分の身体を意識し、客観的にとらえるということができないでのす。

 よくグラビアなどの仕事をして、ワークショップを訪ねてくる方が、人に自分がどのように見えるかを意識して撮影をしたので勉強になりましたと、プロダクションの人が喜ぶような優等生の話をします。そうした話を聞く度に、実は、私は寂しい気持ちになるのです。

 自分の身体が観客にどのように見えるかを意識するためには、自分の身体への自覚が必要なのです。グラビアというのは女性の身体所作を見せるものではありません。身体を自覚するものでもありません。女性の「肉体」を見せるものであり、最初からある程度想定された人々に、その人々が望むいくつかの傾向に嵌るように衣装やメイクを凝らし、「らしく」見えるように造形したものです。
 同じように身体を人の眼に晒すという行為でありながら、俳優のそれとは全く別ものです。敢えて言えば、感情表現から演技を造形するのに似ています。しかし、写真という一瞬を切り取る作業と連続した時間の中で演技を続けるということは意味が違います。

 グラビアをやっている、あるいはやった女優さんの不利は、肉体を見せるというだけで仕事が成立してしまっていることにあるのです。単に体を晒すことで認められてしまうところに大きな落とし穴があり、そこで演技をしたと勘違いするところに不幸があります。

 水着までならまだ救いはありますが、下着、トップレス、ヘアヌードと露出が進むほど、その不利は進みます。鍛錬によってその不利を克服することはできるかもしれません。しかし、スタートラインで、人より劣勢であることは自覚すべきです。それは女優としての意識のあり方でもあり、肉体を露出ことで衆目を集めたことによって、自らの身体を「物」「商品」という割り切りをしてしまうことで身体に自覚的になれなくなるからです。自分の身体へのアプローチの仕方がそうではない女優さんとは感覚的に違ってくると言ってもよいでしょう。

 私が先程、寂しい気持ちになると述べたのは身体を自覚し、鍛錬する上で、劣勢にあるということだけではありません。露出が進んだ女優さんほど、仕事の機会が少なくなる、あるいは、オファーされる仕事やオーディションの内容が限定されていくという現実的な問題があるからです。

 しかし、こうした女優を目指す多くの方が女優になるために必要な過程と勘違いし、露出度の高い仕事へと進んでいく例は少なくありません。グラビアだけでなく、映画などでも入れ替え可能な役でありながら、露出を受け入れてしまい、そういう役柄しかできないという悪循環に陥るのです。

 離見の見・見所の見」というのはそうした意味でも、俳優にとって重要なメッセージを発信しています。つまり、俳優としての自分のあり方も、一旦、冷静に見つめ直す必要があるということです。観客から見たとき、どのような俳優たらんとするかを検証するということです。

 俳優は身体を通じてしか、何事かを表現し得ない人です。しかも、その身体を衆目に晒しながら、何事かを造形しようするアーチストです。それだけに、己の身体をどのように鍛錬し、
どのように生きるかは、俳優としての仕事の第一に意識されなくてはならないことです。

 それゆえに、身体を人目に晒すことの痛みや怯え、恐れを失ってはなりません。身体を人目に晒すことに器用であってもなりません。俳優がそれに耐え、そこに毅然として佇んでいられるのは、そこに身体所作があるからであり、その鍛錬によって、演技するという技を身につけているからです。

 同じグラビアでも、いま述べた鍛錬を経て、造形される肉体の美、エロス的な美とそうではない見世物としての肉体とは大きな違いがあるのです。

リストへ                        TOPへ