第54回 面から点へ、そして線へ  ―新春特別寄稿―




 人は他者、もしくは他国など、異なるものを理解するためのツールを厳密にいうと何ひとつ持ち合わせていない。

 私がこの評論で常に述べているように、他者という自己と異なるものを理解する上では、人、社会、民族、国家は、「他者性」を生きなくてはならない。

 簡単にいえば、自分ではない何者かとどう関係性を築くか、その関係をどのように生きるかを定めなくてはならない。

 だが、そのためには、自己の確立がなくてはならず、自分とは何者であるかが明確でなければ、他者を理解する基軸のないまま他者と向き合わなくてはならないことになる。

 そこには、常に、不安やおそれがつきまとう。自己の基軸がないがゆえに、他者をどう認識するかのモデルが見えず、どう他者性を生きていけばよいかがわかない、どまどいの海に投げ出されるからだ。
 
 人類が、民族が、そして国家が、そのとまどいの海から逃れるため、宗教とそこから導き出される、法や制度、倫理や道徳、規範によって、あるいは、近代民主主義と公民意識によって、自己とは何であるかの存在証明を制度的に獲得しようとしてきた。

 宗教的枠組みによって社会という共同体を一枚岩にすることで、あるいは、近代民主主義の建設によって、[平等」と「自由」が万民の幸福への道であるという幻想を人々の共通認識とすることで(幻想としての社会)、とりあえず、社会や地域、家庭の枠組みにひとつの一貫性を与えるためだ。

 宗教的統合を必要としたのも、民主主義の共有と国家との契約、つまり、公民意識の定着を目指したのも、帰結するのは、そうした制度的枠組みでしか、自分とは何ものであるかの確証をえる術を人類自らが持ち合わせていないことを熟知していたからだ。

 ほっとけば、いつでも社会は溶解し、モラルハザードが恒常化するほど、人間は本来、どうしようもない存在である、ということを人類はよく知っている。

 だが、社会が成熟すると、それまでの共通認識、幻想を共有することで得られた統一性、あいまいながら、からくも成立していた国、社会、地域、家庭の基盤が崩れていく(多様性と流動性が生む幻想の崩壊)。

 なぜなら、同じ社会、同じ民族、同じ国家、いや、同じ屋根の下に住みながら、求める欲求や生活のスタイルが異なるようになり、通信、交通、情報の近接化によって、多様性と流動性を人々が容易に生きられるようになったからだ。

 その結果、価値の崩壊と帰属のあいまい性が生まれた。その不安から逃れるために、人々はコミュニケーションから撤退した。

 いわゆる「孤衆化」が家庭、地域、社会、国家、民族に広がることで、他者との関係性を生きることから撤退、もしくは狭めることで、多様性と流動性が生むおそれ、不安、疲労から逃れようとし、しかし、それが一層、自己の存在をあいまいで、無限のとらえどころのないものに変えていく。

 昨今の通り魔事件や無差別殺傷事件の背景や根幹にあるのは、孤衆化した自己を他者との極端な近接、たとえば人を「傷つける」、「殺める」という行為の中で、矛盾するようだが、実は、他者を強く自覚したい、実感したいという欲求の衝動だといえる。自分とは何者か、自分はここに存在しているという身勝手な確認作業ではあるが。

 「自分の人生を終わりにしたかった」「だれかを殺して、自分も死にたかった」と犯行後、多くの加害者が判で捺したような言葉をつぶやきながら、実は誰一人、その場で自死していない事実が雄弁に、その言葉の向こうにある他者への欲求を語っている。

 自分の死を自ら選択せず、他者=世間、司直にゆだねることで、社会や他者とかかわっているという現実を体感したいのだ。

 しかし、これは、北方領土、竹島など、昨年、多くの注目を集めた領海、国境という問題に対しても同じことがいえるのだ。

 日本も、そして対象国の中国、ロシアにおいても、互いが何ものであるかが見えない時代に入っている。それは同時に、自分とは何者かが見えなくないっている時代でもある。

 いや、世界全体が、経済の安定化への道を突き進む中で、成熟した社会へ突入しつつあるか、または、欧米諸国や日本の停滞に見られるように、経済バランスが構造変化を起こし、かつて成熟していた国々が成熟後の縮小社会へと進んでいる。

 同じ貧しさを共有することによって、共有できていた国家イメージが、同じ豊かさを共有することによって、成立していた共同幻想が、実は、世界のいたるところで崩壊しつつある。それが、否応なく、領土や国境へ人々の意識を導いていく。それによって、自分とは何者かの存在証明を担保するために。

 世界のこうした課題を具体的に議論するために、安全保障、資源環境問題、集団的経済統合などの統括的、面的な討議項目はあるにせよ。世界にとって、いま、より重要なのは、このあいまいになりつつある、自己確認の喪失の方だ。それぞれの国々が、これまでとは違った姿となって出現し、互いの姿をとらえてきれていないことの方がはるかに大きな困難と問題を抱えている。

 そこには、新しいコミュニケーションチャネル、他者性を生きるための新しい方法論とツールが求められている。だが、実は、どの国も、この制度変更ができていないし、そうした取り組みをやっていない。

 いうまでもない。これまでの国際政治の読み解き方によって、世界経済の解読法によってしか、他者性を生きようとしていないからだ。行政を支える官僚も、経済界を支える管理職も、この現実に対応できる学習をしていない。マスコミ、ジャーナリズムも、これまでの左翼的言動をリベラルと誤謬し、あるいは終わってしまったコンサバによる、軽薄な正義を連呼するばかりだ。

 簡単にいえば、世界、国、社会、地域といった統合や面でしか、政治経済をとらえる学習しか、これまでの教育にはなかったからだ。面で世界をとらえる。その方法論は全体像をとらえ、根幹となる施策や政策を立案することはできても、大きな構造変化をとらえ、その要因を緻密に理解し、有効で実効性のある手立てを打つのには、あまりに画一的すぎる。

 大きな構造変化には、それを大きな面でとらえ、画一的に対策を講じなければならない、と人々は考える。しかし、いま起きている他者性の喪失と自己のあいまい性による他者への不安を解放するには、面への画一的な対処法ではなく、点への個別的で、連続的な取り組みだ。

 たとえば、少子化対策の一環として、給付金を与える。そのかわり、予算確保のために、扶養控除をなくす。といった政策によって、果たして、少子化をとめられるのか。

 経済学には、「リカードの中立命題」というものがある。

 簡単にいえば、財政赤字が続くといずれ増税の時代がくると国民が暗黙の理解を持ち、消費を抑えるという理論。この状況で、いくら内需を促そうとしても、人々はその政策によって、消費行動へ移ることはない。

 2100年には、人口6000万人まで減少するといわれている、少子高齢化社会のこの国で、いくら面的な取り組みを繰り返したところで、人々は少子化を打破しようという安心感など持てるわけがない。そもそも、安心感があれば、子どもをつくろう、生もうと行動するに違いないという動機づけへの理解が古い。

 人々がどういう生活スタイルを求め、その生活スタイルに出産や子育てをどうリンクできるか、どういう点の取り組みがあれば、それが他者へ連鎖し、線としてつながりを持てるか。考えるべき施策の要は、そこにある。

 世界の構造変化に、国内の諸問題に対応するためには、こうした発想の転換と視点の変更がいる。それは、実に手間と地道な取り組みと時間が必要なことだ。劇的な変化や成果をすぐに得ることはできない。

 だが、そのスタートラインに立とうという転換、イノベーションへの意欲を明確にするところかしか、変化への道は始まらない。

 世界が、国家が、社会が、そして地域や家庭が、その明確で、それぞれの生活実感に届く、変化へのメッセージを熱望している。その旗があれば、それぞれの国が、それぞれの人々が、困難な現状に立ち向かい、明日のために自ら、行動を起こしたいと願っている。




リストへ            ページトップへ▲