徳島市立高等学校オープンスクール 人権啓発シンポジウム
             ―白紙のページ上映会と討論―

※本文は、泣tォア・ザ・ワン・プロジェクトが聞きお越し、加筆訂正を行っております。誤字、脱字等の文章の誤りについては、弊社が一切の責任を負います。


生駒

まず、秀嶋さんの方から、この映画の趣旨、あるいは制作にまつわる話などをしていただければと思います。また、その後の反響についてもご紹介していただければと思います。続いて、前平先生から京都大学における教育への取り組みについてご意見をいただればと思います。

秀嶋 

みなさん、こんにちは。本日は、徳島市立高校のオープンスクールということで、メインは、そちらにあるわけですが、その中で、こうしたシンポジウムを開催されるということで、喜んで参加させていただきました。
    
制作にまつわる話というと、ちょっと話が長くなりますので、どういう趣旨で、この作品をつくったかというお話からさせていただこうと思います。

みなさん、NHKの大河ドラマをご覧になっているでしょうか? 『龍馬伝』というのをやっています。お隣の高知県の話なので、徳島の方はあまりおもしろくないかもしれませんが(笑)、当初視聴率はあまりよくありませんでしたが、佳境に入ってきて視聴率が伸びています。

ご存じのように龍馬が暗殺されたのは、11月15日。誕生日の日に殺害されたのですが、その暗殺の要因にはいくつかあります。その中でも一番大きな要因といわれているのが、「船中八策」といわれるものです。

龍馬が書いた、いまの日本国憲法に近い、政治体制を築こうという内容のものです。この提言が大きな殺害の要因になっているといわれています。

実は、この『白紙のページ』という作品をつくらせていただくに当たって、そのことと若干、関連性があるのですけれど…。

私たちもそうですが、みなさんも、人権啓発や社会教育的なことをなにがしか仕事や日々の活動などで取り組んでいらっしゃる方々が多いと思います。

ところが、残念ながら、私たちは戦後教育の中で長い間、人権啓発ということに取り組んでいますが、果たして、人権は守られ、差別はなくなっているでしょうか。

私は東映の仕事が多いのですが、東映、東宝、松竹、日活といった大手の映画会社が中心になって、戦後まもない頃、人権啓発を含めた社会教育映画というものをつくり始めました。大手映画会社の中で現在も人権啓発を制作しているのは、東映だけですけれども、その中で差別がなくなかったかといえば、そうした様相はあまり見られない。

確かに、いろんな人の関心を集めたり、同対法の関係で、道路整備や箱ものは整備されてきているわけですけれど、差別とか人権の問題が、私たち日本国民の中に、きちんと定着しているだろうかと考えたときに、まだまだ定着していない部分があるだろう、というふうに私自身思っております。

そうした中で徳島県、徳島県同和対策推進会の方から、屠場を扱った作品をつくりたいというご要望があって、それならば、その作品の中に私自身の思いも込めてつくれないかということで、制作に入らせていただきました。

作品のタイトルにあります『白紙のページ』というのは、先ほど、龍馬の「船中八策」のお話をしましたけれども、私たち日本が近代化する中で、白紙にしてきた、ふれなければいけなかった、日本近代という社会をつくっていく上で、ちゃんと目を向けていかなければいけないかったことについて目を向けずに今日まで来てしたまったのではないか…。

それが同時に、私たちが現在生活している中で、差別や人権の問題がなかなか裾野の広がりを持てない原因ではないか。そうした思いを作品の中に入れさせていただきました。

とりわけ、人権啓発に関していえば、人権問題にかかわっている、人権問題を扱っているという人たちの世界というのが、かつてと違ってきているということがあると思います。

一時期、差別というものが社会に明確に見えている時代には、ある意味,対立関係とか敵対関係が目に見えて明らかな分、一般の人々にも伝えやすいという一面があったわけです。すべてではありませんが、一部そういう面があった。

ところが、現代にいたると、この校舎もとてもきれいですが、きれいな校舎、きれいな建物、都市的な建造物の中に埋没してしまって、私たちの生活の中にある差別の実態だとか、差別の現実だとか、そういったものに目が向きづらくなってきてしまっている。そういう社会の中で、ますます白紙にしてしまっている部分があるのではなかろうか。

そういったことで、今回はテーマは食肉ということなのですが、作品を通じて、いまお話したようなことが感じていただければなという思いを込めて、監督をさせていただきました。

詳細については、みなさんご覧になって、それぞれの感想をお持ちになっていただければなと思っております。

もう一点、その後の反響ということなのですが、おかげさまで、この作品は、教育映像祭というものがあるのですが、そこで優秀賞をいただきまして、人権啓発センターだとか、市の人権課といったところで活用していただいています。

私、個人のことを申し上げると、こうした作品は珍しいということもありまして、その制作の意図や考え方につきまして、人権啓発センターとか、人権啓発企業連絡会とか、そういったところからお声をかけていただいて、いろいろお話をさせていただく機会がちょっと増えたということがあります。

いろんなご意見があると思うのですが、観ていただいて、それぞれが心の中で素直に感じたことを受け止めながら、ちょっと一歩踏み込んで、単に差別だけの問題ではなく、私たちの生活のあり方そのものを振り返っていただければと思っております。

前平 

ただいま、御紹介に預かりました、京都大学の前平と申します。人権に深くかかわっていると生駒先生がおっしゃいましたが、教育学研究科で生涯教育という、一生涯の生まれてから死ぬまでの教育というものを専門に研究したり、教えたりということをしています。

同和人権教育というのが、京都大学の中では唯一部落問題に関係する授業なわけなんですけれど、しかも、それは半期だけなのですが、それを担当していることが、今日この台に上がった直接の、間接的かもしれませんが、きっかけだろうと思います。

ですから、部落問題の専門家ではないということをお断わりした上で、お話をしたいと思います。専門家ではないというのはどういう意味かと申しますと、部落問題に関する発言や文章を大学以外で公表するということはなかったわけですし、そのつもりもありませんし、そういう機会もなかったからです。

しかし、いまから2年ほど前でしょうか、人権差別人権という授業がありまして、改めて、人権、差別というものを考えていこうということで、京大の先生方がリレーで講義をするという取り組みを始めました。そのリレー講義を一昨年まで私が担当していたものですから、人権についてある程度のお話はできるということはあるかもしれません。

ただ、私個人としては、部落問題に限らず、人権に関する事柄は専門家に任せてはいけないと思っています。つまり、専門、非専門にかかわらず、すべての人にかかわる事柄ですから、たとえ、間違っていてもかまわない、ヘンなことをいってもかまわない、いろいろな人がこの問題と向き合うことが大事だろうと考えています。

私としては大した力はありませんし、別にこれで飯を食っていこうというつもりはないんですけれども、向き合って生きていこう、そういうスタンスでずっときています。

したがって、学生諸君からしばしば糾弾されることもありまして、私はその度ごとにすみませんと自己批判ばっかりしているわけです。

京都大学が部落問題にどうしてかかわるんだということが、二つ目にわからんと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、京都大学の近くに大きな被差別部落 があります。その地域は、一時代を画した部落解放運動のリーダーたちがたくさん出た地域でもあります。

京都大学は、それに対して歴史的には、プラスとマイナスの両方の側面を持ってきました。解放運動というものを理論的に引っ張ってきたリーダーたち、ひょっとしたら、みなさんの中でお名前ご存じかもしれませんが、井上清だとか、奈良本辰也とかは京都大学の出身者です。

私の知る限りでもそれくらいの人がすぐに頭の中に浮かんできますから、もっともっと面といいますか、部落問題にコミットした京都大学の先生はたくさんいらっしゃると思います。

それから、学生の活動でも、戦後、セツメント運動というのがありまして、学生の部落問題研究会という学生サークルが誕生しました。そのサークルの活動を通じまして、部落子ども会というものを組織して、部落に入って、当時、だれからも見向きもされなかった部落の人たちとの交流を図っていったという歴史を持っています。

ただ、これはプラスの一面なんですが、マイナスの側面もあります。京都大学自身が、京都大学の中の先生の部落出身者を差別したという事件もありますし、近年ですと、差別落書きがたくさんあったり、被差別部落出身者の名前を公然と出して攻撃する文章があったり、最近は、休んでいるというか、見えなくなりましたけれどそういうものもありました。

教職の実習生向けのオリエンテーションの文章に差別的な文言が入っていて、学生諸君がそれを糾弾するという、これは私が学生時代のことですが、ありました。こういうことがあって、初めて、同和人権教育という授業が成立していくわけです。

ですから、京都大学の人権問題は、正と負の問題があるということになります。それを始めに申し上げておきたいと思います。

それで、今日のビデオの話になるわけですが、これは生駒先生に見せていただいたんですけれども、いままで、人権啓発のビデオとしては、私個人の感想ですが、出色のビデオだと思いました。

私はいままで、人権啓発の啓発物といわれるビデオは、見る機会もあまりないですが、たいていはつまらないので…つまらないといっていいかどうかわかりませんが、つまり、最初から答えがわかってしまう、つまらなさがあります。

とても学校教育的で、落としどころや結論が最初見たらわかるというようなビデオ ばかりみせられて、つまらないと思ってしまったわけです。これは、みなさん、学生生徒諸君もほぼ同じような感想をお持ちなんだろうなと思うのです。

そうした中では、とても出色の、つまり、すばらしいビデオだと、私は思いました。それで、私の京都大学で担当しています、同和人権教育という授業の中で、何もいわずに、つまり、どういうビデオであるかということを説明ぜずに、第一回の授業の中で部落問題はなにかとか、一切いわずに、見せたわけです。

このビデオを見てもらって、その後、感想を書いてもらい、次の授業から同和人権教育を始めるというスタートをここ2年前くらいから、2回ですけど、とっています。

いま上映の前に、ここがいいんだとか、ここがおもしろいんだとかいうことは、もちろん控えますけれども、屠場の問題を題材にしながら、ドキュメンタリーですけれども、その中に様々な問題が含まれている。

そして、人権の問題というのが、部落問題も含めてですけれども、すべての人にかかわる問題なんだということを私たちに訴えている。そういうビデオではないかなと思っています。

後で、おそらく、生駒先生が京大の学生が見たいくつかの感想を披露してくれるはずですので、また、上映後、それを通じて、秀嶋監督と一緒に議論ができたらいいなと思っています。


                  ―作品上映―


秀嶋 

みなさんがどんなふうに受け止めれらたかわかりませんが、私のような仕事をしておりますと全国の人権啓発関連の方々とお会いするチャンスが多いのですけれどこの作品をご覧になって、行政の方とか、啓発団体の方が最初に私に質問されるというか、どこにいってもまず同じことを聞かれるのですが、どうやってつくったんですか? と聞かれるんですね。

どうやってつくったんですか? という質問の裏にあるのは、驚きです。

今日ご覧になってわかったように、どなたも実名を隠していませんし、どなたも顔を隠していませんし、同和地区の名前もはっきり出しています。これは、もちろん同和地区のみなさんの絶大な協力をえられたということが大きいのですが、そうした中で、こうした作品が実現できたことが、まず、驚きだというのが、大半の反応だし、疑問として持たれています。

そのとき、いつもご説明するのは、先ほど、生駒先生がお話になったように、同和対策推進会のみなさんが、長年にわたって、こうした作品を世に出すべきだという熱意の中で積み重ねてこられた努力の最後の結末のところでお声をかけていただいて、私は、そこに乗っかったに過ぎないということが言えますから、多くの労は、そこにあるのです。

実際に、こうした地域の方々の取材をということになり、食肉センターの所長さんも県の食品衛生検査所の所長さんもそうですけれども、お話をさせていただいて、事前に取材をさせていただく中で、本当にこういう作品をつくって欲しいという、現場の方々の熱意を逆に強く感じました。

こういう趣旨でというご説明をして、すでにリタイアされた、屠場がとても不便というか、使いづらい状態であったり、いま以上に露骨な、直接的な差別があった時代に屠場で働かれた方々の取材をさせていただいて、やはり、みんさんが同じように、こうした作品をつくって欲しいという強い思いを感じさせていただきました。

決して、ご自分たちの名前とか、発言をオブラートに包んでくれというような要求はこちらの方からあえて、そうしたお話はしませんでしたけれど、一度も示唆的なお話を受けたことはありません。

もう一点は、私もいろんな覚悟を持って、現場に入らせていただいたんですけれども、私たちがこうした作品をつくるということへの現場の方の反発とかですね、不快な思いをされるとか、予想もしていたのですが、そうしたものは、ほとんどなかったといっていいです。

作品をつくらせていただいて、制作側の関係者以外で最初に試写会をやったのは実は、この地区にある公民館でやらせていただきました。

本当に活発なご意見が出て、それは反論ではなくて、よくやってくれたというご意見で、試写後は、拍手が沸き起こりまて、ぜひ、こうした作品を違う地域の人たちに、屠場の現実を知らない人に見せて欲しいということを口々におっしゃってました。

そうした中で、1997年の神戸で起きた児童連続殺傷事件、「酒鬼薔薇事件」といわれる事件がありましたが、その事件が起きて、生物の実験で蛙の解剖はやめようという動きがすごく進んで、現実にいま蛙の解剖ができない状態が続いています。    
しかし、そういうふうな状況じゃなくて、この作品にあるように、生き物のいのちを奪うということの中から、どんなふうな形で私たち人間が得難いものを得ているのかということを包み隠さず伝ええることの方が大事なのではないかということをご意見としておっしゃっている方もいらっしゃいました。

ただ、私、冒頭に申しましたように、非常に不思議に思うというか、なぜだろうと思い続けているのは、こういう作品をつくったときに、どうやってつくれたんですか、よくつくれましねといっている方々が、実は、人権啓発の仕事にかかわりあっていらっしゃったり、取り組んでいらっしゃる方なんですね。

あるいは、それを教育現場に伝えていこうという努力されている方。私どものような人間からいえば、非常に不可思議で、そういう質問ができること自体、何かがおかしい、と私は思います。

前段の話の中で、前平先生がちょっと触れられていましたが、人権啓発に携わっている方々にある規制だとか、人権啓発をやってらっしゃる方たちの中につくられている固定価値観みたいなものが、ある意味、長く日本の人権啓発活動、運動の中で、桎梏になってきているものがある。

いまや明らかに、人権の問題に関しても、戦後間もない頃とか、高度成長期とかとは、姿をまったく変えています。

一部、宮崎学さんが、この作品の中でも、インターネットの話を出していますけれども、日常における、非常に美しい、明るい社会というものを人々が求めていて、ゴミひとつない、チリひとつない生活環境、あるいは、においのない環境、そういったものを求めていて、それがなにかとても近代的で、都市的で美しいことであって、ある意味、正しいことのように思っていて、かつて日本社会にあった、私の子どもの頃にあった、歪なものとか、淫靡なものとか、そういったものをあからさまににすることが、何か悪のことのようにいわれるようになった。

そういったものは、覆い隠そうとか、なるべく目に触れさせない方がいいとか。そういう中で脇に追いやられることで、人として当然持っている感情が押し殺されて、プライベート空間へどんどん押し込まれていく。それがいま人権を取り囲む環境だろうと思います。

これは学校教育の部分だけではなくて、私は、企業関係の人権啓発作品もつくっていますが、たとえば、人権啓発企業連絡会という、東京でいえば、大手上場企業120社以上が参加している団体があります。

ところが、そこにいろいろな人権啓発担当者がいますが、長く企業内の人権啓発に取り組んでこられた方の話を伺うと、たとえば、その企業内で人権研修をやってみんなで差別はいけないと手を挙げても、インターネットの書き込みで誹謗中傷している、あるいは、パワーハラスメントをやっているということが現実にあるわけです。

そこに手が届くことを考えなさいと、宮崎さんがいってますけれども、手に届くというのは、その逃げ場に逃げていかないような人権啓発の仕方をしていかないと、一方的に人権をやっている、取り組んでいる人たちの考えだけを大衆に押し付けるということになるんじゃないかと思います。

その辺の問題点を今回のこの作品は、私自身にも考えさせてくれましたし、屠場に働く方の姿に接して、強く感じたことです。

生駒 

前平先生の授業で視聴した京大の学生の感想をご紹介したいと思います。
   
「私たちは小学校でいろいろな仕事を学びます。しかし、屠場で働く人のことは学びません。でも、そのとき、屠場の現実を知ったら、どうでしょう。牛や豚はもう食べられないと泣く子もいるかもしれません。

しかし、大半の子は、食べるとも思います。年齢が低いほど、とらわれないと思います。私たちは、自分たちの残虐性を隠すためにタブー視しています。人のために牛を育て、太らせて、殺す。

その現実に向き合うことが現代人の葛藤だろうと思います。その葛藤から逃れるために、屠場の人々を差別するようになったんだろうと思います」

こうした感想を持った学生は、その後どういう意識や考え方を持つようになったか。そのあたりを前平先生にお話いただければと思います。

前平 

その後はどうなったかというご質問ですが、そのことをお話する前に、このビデオは重いテーマだというのは、みなさんも共通の了解を持たれていると思うのですけれど、なぜ、重いんだろうということは、私たちが生きて行く上では、社会的な何らかの形で、差別とか、抑圧とか、そういうのものと向き合わないと生きていけないんだということをいっているんですね。

普段は、オブラートに包んで、宮崎さんがビデオの中でいっていたように包んでいるわけですけれども、それが見せられるというか、そういうところがあるんですね。

つまり、社会的な矛盾や差別というのは、自分たちと無関係ではありえないんだということをグッサリ突きつけてくる。そういう重さの問題だろうと思うんですね。

学校教育の中で、人権教育という形で私も担当していますけれども、実感してもうらということがとても難しいんですね。難しいんだろうというのは、いくつか理由があります。

私は教育の現場にいるので、教育というところから人権の問題や差別の問題を考えるしかないなんですが、一つは、学校教育というのは、外から、外部から知識を与えていくようになっているものですから、自分の身近なところから問題を立てるというような発想が逃げていくんですね。

だから、知識をたくさん持てば持つほど、立派な人になるというのは、絶対に嘘で、少なくとも幻想で、そんなことはありません。えらい人が、えらいという言い方はちょと適切かどうかわかりませんが、いっぱい差別発言をしたり、人権を踏みにじったりということは、ままあるこです。

その原因はなんだろうと思いますと、まず、京大生だけではないと思いますが、学生諸君は学校というところにとても隔離されているわけです。

たとえば、親と先生以外の大人とはいままで話をしたことがないというような京大生がいるわけです。ま、塾の先生とも話をする、スポーツクラブの先生とも話をするということはあるでしょうが、いずれにせよ、先生といわれる大人としか話をしないという学生がたくさんいるわけですね。

普通の大人を知らないということはどういうことかというと、結局、職業を知らない。

普通の大人がどんな職業をやっているかすら知らないわけです。ましてや、現代社会というのは、私たちが食べる物がどういうふうにしてつくられて、どんなふうしにして、自分の口まで持っていけるかということは、全然わからない社会になっています。

そのときに、たとえば、屠場のこういうビデオを突きつけられると、大変ショッキングで、学生の感想の中には、こんなショッキングなのは初めてだという感想がありますが、事実、上映中に、スポーツ選手並みの体のがっしりした学生が退場しました「先生、ちょっと気持ち悪くなったので、出させてください」といった学生がいたんです。

そういう意味で、大人を知らない、先生以外の職業があることは新聞やテレビなど話の中ではあると思いますけれど、いったい、どんなふうに大人が仕事をしてるかといことを知らないわけですね。

そういう問題が一つあるだろうと思います。

それから、学校教育がはずしてきたものというのがあって、つまり、無視してきたもの。それは何かというと、人間の五つの感覚の中の、学校で使う感覚というのは、視覚と聴覚を中心にされています。

もちろん、ビデオは見ることと聞くことで成り立っているわけですけれも、しかし、においというものも想像することは可能です。しかし、学校教育では、においというものは一切評価されていないわけです。当たり前のことですが。

五つの感覚のうちの視覚、聴覚をとても偏重して、嗅覚や触覚、味覚というようなものは、ほとんどなきがごとし、あるいは、賤しいものとして、捨てられてきたわけですね。

だけど、私たちが社会に出て、必要なのは視覚と聴覚だけではありませんし、私たちが人間としてといいますか、もっとよく生きようとすれば、おそらく五つの感覚を十全に使って生きることの方が、私には、大事なような気がするわけですね。

そういう意味でも、このビデオは、もう一回、血の滴りというか、においもある、あるいは味もあるという問題を突きつけてくれているというところで、私は、とても新鮮に感じました。

それで、学生の感想についてなんですが、とてもショックは受けているけれども、おおむね、了解といいますか、自分が知らない世界を見たということによって、新しい世界へ出発していける予感というようなものを感想の中に書いてくれた人がいたような気がします。

私は、どちらかというと、臆病者なので、あまり差別の問題、人権の問題というのを自分から前に出て、こうしなさない、差別はいけませんなどといったことがないので「先生は何を考えているんだ。差別はいけませんというようなことを言わないのはどうしてですか?」と逆に聞かれることがあるんです。

けれども、むしろ、それよりも、「自分が差別などしたことがない」「そんなことは放っておいたら、いつの間にかなくなっていくだろうから、知らない方がいい」という学生たちに、どうしたら、そうではないんだということを知ってもらえるかということに、大半の時間を費やしています。

ま、答えになっているかどうかわかりませんが、とりあえず。

生駒 

ありがとうございます。たぶん、ダイレクトにはつながっていないかもしれませんが、ご意見に関係すると思いますので学生の感想を紹介したいと思います。

「同和教育に関する学校教育の一定の効果と疑問は最も考えなければならない、
課題だと感じました。私もその一定の効果をえた学生のひとりです。

人権教育と聞くと心の底で、いやだな、面倒くさいなと思いながらも、形式上、よい感想、評価される感想、みんなと同じような感想を書いて、後は深くかかわろうとはしていませんでした。

差別はいけないものだとわかっているし、自分は差別をしないと思っていて、根本的な部分は評価できると思います。しかし、それは表面的にきれいに取りくつろっているだけであって、同和問題に対する本質的な理解にはつながっていないと思います。

これを変えていくのは大変困難で、何かをかえて、ああすれば、こうなるというような簡単に答えがでるものではないと思います。少なくとも自分自身に関していえば、こういった事実を知ることができたこと、そして、自分がその教育の効果を受けたということに気づけただけでもよかったと思います。

今後、よりよい社会を築くために、何かにつなげていきたいと思います」

もうひとつ、違う意見としてたあったのは、シビアにこのビデオを分析していて―

「このビデオは、何のビデオなのでしょう。すなわち、これは同和問題のビデオなのか、食肉のビデオなのか、それとも職業差別のビデオなのか、そこのテーマが一貫していないのではないか」

という指摘をする学生もいました。秀嶋監督、この指摘についてはどうですか?

秀嶋 

それは、私も読ませていただきました。なかなか、鋭い指摘だなと、その着眼点には敬服します。

その書かれた方の考えというのは、先ほどの話とリンクしますけど、人権啓発というのは、こういうものだという先入観がどうしてもどこかにあるということなんですね。

たとえば、職業差別を勉強しようとすれば、職業差別のテーマで何かを勉強する。あるいは、屠場の差別ということであれば、屠場の差別だけを勉強をする。

今回は、この作品は食肉ということですから、食育と食肉と差別という三段重ねになっている。それをわかりやすく、住み分けをして、啓発なら啓発で勉強したいといような、潜在的な欲求がその学生さんにたぶんあったんだろうと、ぼくは読んだと きに思いました。

そういう方から見れば、いったい、どれが一番いいたいことなんですかという疑問に思うのは、わからなくもありません。

さっきもちょっとお話したように、人権の啓発だとか、人の人権を考えるときに、たとえば、一点だけでは、人権というのは、必ず読めないはずなんですよね。

みなさん、どうでしょうか? みなさんが、自分の人柄とか、自分はこういう人間だといったときに、たとえば、だれかから、あなたはこういう人よねといわれたときに、その通りのその人でしょうか、みなさんは?

たぶん、違うと思うんですよね。私は、主婦として家庭にいるときは、こんな自分。教師として仕事をしているときは、こんな自分。あるいは、そうじゃない、友だちとかと会っているときの自分。あるいは、スポーツクラブにいっているときの自分…。

いまの人たちは、みんな一人の人間像として、こういう人間だから、こうだと言い切れないように、たとえば、人権ということを考えていくときに、ただ、一方の視点だけで何かを理解していくというのは、なかなか難しい。

それよりは、一つのテーマを深く掘り下げて、その中に出てくるいろいろな要素をきちんと、数珠玉に糸を通すように、結びつけて理解することの方が、はるかに大事だと思います。

ただ、その彼は、彼だったか、彼女だったかは忘れましたが、レポートを書いた方は、そういう自分の現実にぶつかっている。ということは、素晴らしいことだと思うし、その中でいま、いったい何だろうと考えた段階で、次のステップに入る糸口を、きっとご自身は、気づいているかどうかはわかりませんが、もう見つけていると思います。

付帯して、時間もあまりありませんので、言わせていただければ、人権の問題で、差別はいけない、差別はやめましょうというのが前提にあります。今日、多くの方々が、この会場にいらっしゃる方々が、差別はいけない、あるいは、いじめはやっちゃいけないということに賛同されると思います。

ただ、私は思うのですが、差別したければ、すればいい。差別したくなければ、しなくていい。そのいずれを選ぶかは、みなさんの自由。自分が被差別者、差別される側の立場のとき、差別されて泣き寝入りをする、あるいは、自分の権利を主張して立ち上がる。いずれを選ぶのも、あなたの自由。

基本的にそういう自由は、あるわけですね。どれがいい、悪いじゃなくて、その自由とは何かを考えるところから入っていかないと、人権啓発という問題はいつまで経っても古色蒼然とした権利主張の戦いだけの問題になるんじゃないかと思うんです。

権利主張の戦いをする上で、便利であるがゆえに、いまの彼のように、テーマを明確にしてくれと、職業差別の話だけいましたいんだというようになっちゃうんですね。

そうではないですね。人間は、不条理な存在であり、多様性を生きていますから、その中で出てくる問題は複雑に絡み合っています。それを紐解くことをしていかないといけない。もっといえば、人権啓発を新しくする上で、何が大事かといえば、すべてみなさんの自由なんだということなです。

その自由であるところの自分のあり方をみつめていくということをしていくところから始めなくてはいけないのではないかと思うのです。

もし、彼とぼくが出会うことがあれば、この話をして、君の自由はいったいどこにあるのかということを問いたいと思います。

生駒 

ありがとうございました。では、映画の中身について、少し議論したいと思います。
これは、秀嶋監督のネットワークの中から、宮崎学さんに出ていただいたんわけですけれども、宮崎さんがおっしゃっていたことがとても印象的で、それを京大の学生がこう述べています。

「差別がないことになっている社会。その中で、自分たちが差別の現実を無視している。今後は、そういうところも見極めなければならなくなるのではなかろうか」

実は、当然、私たちの学校の中にも差別はありますし、それを見ないことにして、わからなくなっているということもあるかと思いますが、宮崎さんがふれている、2ちゃんねるのような暴力に関しては、どのような考えをお持ちでしょうか?

前平 

ちょっと過激になるかもしれませんけれども、宮崎さんと私は、ちょっと意見が違います。インターネットで匿名で誹謗中傷するということについては、私はどちらかというと、それをよしとしたいと思うという、そんな過激な人間です。

なぜ、よしとするかということは、みなさんにまた考えてもらいたいんですが、私の個人的な問題提起なんですけれども、部落差別だけではなくて、差別をする側があからさまに差別をする機会といいますか、そういう時間、そういう場面というのは、おそらく、なくなった。

明治の頃と比べたら、格段の差だということは、どんな人でもおわかりだろうと思います。で、そのときに、匿名でだれかを誹謗したり、中傷したりするということは、その人は基本的に自分がやっていることが間違っているということはわかっているわけですね。

だからこそ、そういうことをやるわけですよね。本当にそれを正しいことだと思ったら、辻説法でもシンポジウムでもいいから、やればいいんですが、そういうことはやらないわけですから、きっと、その人は自分のうしろめたさをどこかで隠すために、匿名で落書きを書いたり、あるいは2ちゃんねるを書いたりという形で、ある意味で自分のうっぷんを晴らしている、そんなところが私はあるような気がしてならないんですね。

だから、こんなにも差別が…といような発想というのは、どこか、じゃ、すべての2ちゃんねるを特定していって、その人たちをひとりひとりを見つけ出して、差別はいけませんよというように、私たちがつぶし屋さんになれば、差別はなくなるんだろうかといと、宮崎さんの意志と反するようなもっとひどい社会が出てくるような気がするわけですね。

したがって、私は、そこまで追い詰める必要はないんじゃないだろうかというふうに思っています。 

しかし、もうひとつ、ただしというのが条件として付きます。

これは、京都のある大学で発生した、みなさんもご記憶の方もおありかもしれませんが、学生同士のレイプ事件がありました。それもあきらかに人権侵害の事件なんですが、その後に発生した、ツイッタ―というある限られたサークルの中で、加害者の側の方を持って、あることないこと、あることも書いたのでしょうが、結果的には被害者を追い詰めていくような、そういう書き込みをたくさんしていたということがあります。

これはあきらかに、人権侵害、差別だろうと私は思っています。そこの違いはどこなのかということだろうと思いますけれども、噂を広げる、その人は、加害者があまりに不当だと思って、義憤にかられて書いたのかもしれませんが、噂を広めるという点では、このインターネットというのは、噂が噂を読んで、どれが真実かわからなくなりますから、それは、やはり情報リテラシーというようなところで、きちんと守っていかなくてはならないと思うのです。

それとは違う、2ちゃんねるのような、あるいは、落書きのようなものは、私は個人的には、将来的にはそういう場で発散させるような差別の空間というようなものは、残してもいいんじゃないかというふうに思っています。

生駒 

前平先生にもう一つ、伺いたいのですが、身近なところから人権教育を考えられないかというのがあるのですが…。

前平 

人権啓発や差別問題で、私が腑に落ちないのは、差別はやめましょうという根拠の中に、この人たちは遅れているから、差別が発生していると考えがちです。たとえば、ある種の調査ををみても、こんなに意識の低い人がまだこんな差別意識を持っているというような分析をする。

いってみれば、上から目線で、こういう分析をやるんですね。私は、先ほど秀嶋監督がおっしゃったように、監督の言葉を私なりの解釈をすれば、人権とか、差別というのは、文化ですから、差別をする文化もあるわけですね。とはいえ、それはいいとは思いません。

差別をする文化よりは、差別をしない文化、人権をつくっていく文化の方がはるかにいいわけで、もっと生きやすい社会なわけですけれども、しかし、何が差別であるかを決めるのは、とても難しい。

それは、そこにいる人たちが、みんなで話し合って決めていく。つまり、ローカルなところで話し合っていくのがいいと思います。

2ちゃんねるは、そんなローカルなところが、あんまりありません。つまり、顔もみえないし、その人の息遣いとか、においとかは、わからないので、どういう人が何を言っているのかわからないところがある。

危険といえば危険だと思うのですけれども、たとえば、国連でこうなっているからとか法律で決まっているから差別はやめましょうというような考えはいかにも浅い。

そういうようなことだと、逆にまた、別の関係になったとき、簡単に差別をやめましょうといっていて、差別をしてしまう社会が出てくるような気がするんですね。

そうではなくて、何が、私たちがもっと生き生きとできる、胸を張って、自分の職業はどんなことをやっているとみんながいえるような社会がどうしたらできるだろうかというところに問題を考えていった方が、私はとても生産的なような気がします。

これは、まったく個人的な私の見解です。

生駒 

ありがとうございました。最後に秀嶋監督から一言…。

秀嶋 

私はいろいろな人権啓発の講演会に自分から行くことはないのですが、呼ばれていくことが多くて、その度にお話しするひとつのことがあります。

それは、先ほど前平先生がおっしゃったこととリンクするかもしれないので、御紹介したいと思いますが、たとえば、人はどういう存在か、原理原則的に人はどういう存在かと考えたときに、人は人を差別する存在だし、人は人を殺す存在です。

これは有史以来からの歴史を考えて、人類はそうした歴史を生きています。そして人は人を差別し、人は人を殺さない限りは、いまの地球の人類の発展もありません。これは、歴史を振り返れば、みなさんよくわかることだと思います。

人間の本来性の中には、人を差別したり、人を殺したりする一面があるということなんですね。同時にそれは、平時の場合、何事もなくて、安全が保障され、みんなが幸せに生きていて、たとえば、ストレスもなく、明日の生活、それから10年後の未来に対して、自分の不安がなければ、人はそれほど動揺しませんから、他者にもやさしくありえます。

思いやりを持ちなさいといえば、思いやりを持ち、同和地区の人を差別してはいけないですよといわれれば、ま、そうしようかと素直に思える。

しかし、それが平時でない場合、過度にストレスがある、明日自分の食べる物がどうなるかわからない、あるいは10年後の自分がどうなるかわからない、あるいは、家庭生活の中で親子関係がうまくいってない、兄弟関係がうまくいっていない、学校でもうまくいっていない、仕事でもうまくいっていない…。

みなさん、御存じのように、いまは非常に景気も悪く、いまの日本の社会は決していい状態とはいえません。そういう中では、いまの多くの人たちが、いろんな意味でのストレスや不満や怒り、忸怩たるものを抱えながら、日々生きています。

私は、そういう状態は決して平時ではないと思っているんですね。

いまインターネットの話が出ましたけれども、表向きは何もありませんよとにっこり笑いながら、部屋でひそかに自傷している女の子がいたり、うつ病の苦の中で、だれにも相談できずに自殺をする。年間、3万人以上の方がなくなり、約9000人くらいの人たちが労働者、サラリーマンです。

というような社会の中で、どんどん、そういった表向き美しく、明るく、元気で、前向きという世界がよきこととされ、そこで発散されないものが、どんどん、淫靡な方へプライベート空間へと押し込まれていく。

そういう社会のあり方はおかしいし、人権や差別の問題を本気で考えるのであれば、人権や差別だけの話題として考えるのではなくて、人々がどうやったら、自分らの幸せを享受できるか、勝ち取ることができるかを考えなくてはいけない。

冒頭でちょっといいましたけれども、「白紙のページ」という言葉の中には、龍馬ではありませんが、「船中八策」にあったような公民権、国民主権の公民権意識をちゃんと持つところから、公民権意識が広がれば、差別の問題を違った見方から考えることもできるという思いがあります。

そういったところまで、踏み込んで考えていける社会になったらどうだろう…ということがありまて、本来、人はそういう存在だということを前提にしながら、人権の問題、差別の問題、あるいは社会に現れるいろいろな現象をみつめて、人を決して追い込まないで、その中で、どういう解決策がみつけられるかを淫靡なプライベート空間ではなくて、私たちの日常の中で取り組んでいく。

私たちの生活の現場の中で、家庭の中や学校の中や地域の中で、その問題と向き合っていく、あるいは、相談ができる、さっき前平先生が落書きができるということをおっしゃいましたが、そういうものを、ぼくら大人がどうつくりあげて、次の世代によき国を残していくかということを考えることが基本的に大切なことじゃないかというふうに思っています。

                                 終了。

  ページトップへ▲