第53回 清潔社会の汚れた魂




 
人間存在につきまとうのは、生物としての不浄さだ。


 人は性という動物的本能と無縁では生きられないように、食と排せつが切り離せない。

生命維持の基本的な働きから無縁ではいられないのが人間だ。倫理や道徳、あるいは

正義といった社会秩序を維持するものは、実は、この生物の生理とは対局にある。

 当然ながら、脊髄と直結する脳の視床下部野の生命維持機能と前頭葉の思考機能と

は、いわば、ジキルとハイドの関係にあり、人間の一次欲求をどう抑制するかに、前頭葉

の働きは位置している。

 この対局の狭間は、しかし、重要で、倫理、道徳、正義といった社会秩序の根幹が、常

に、人間の生理によって検証され、それらが、人間の原理的な生との折り合いをどう図れ

るかを問い直すところに、バランスのとれた社会秩序が出現する。

 簡単にいえば、きれい事だけで、物事は解決しないという、人間社会の原理がそこに

見え、同時に、建前だけで他者と結びつかず、人間の生理を含んだ他者との関係性の

構築を人々は目指さなければならなった。

 しかし、社会が成熟し、インフラが整備されていくと、人は、本来ある生物学的存在とし

ての人間性、視床下部の働きをを否定し、それを汚れた、不浄なものとして、社会の表

舞台から抹消することにやっきになる。

 ゴミひとつ落ちていない公的環境が理想とされ、それが実現すると、それが家庭や職

場環境においても当然とされるようになり、生活の利便性や作業の効率化のために、家

庭や職場でアメニティという名の環境整備が行われ、トイレや台所の臭い、あるいは、人

間の体臭さえも、不浄のものとされ、それらを生活の中からいかに抹消するかが重要に

なってくるのだ。

 すこぶる人間を感じさせる、そうした生物学的な不浄さを、表舞台から消し去ることで、

実は、耐性や免疫力を人々は低下させた。それが、さらに、生物学的不浄さを人々から

遠ざけることになる。

 なぜなら、不浄さに対抗する力が低下するがゆえに、より一層、不浄さに敏感になり、

異常ともいえる反応を示すようになったからだ。

 これは、そうした生活の局面においてでなく、死という現実に人々が向き合えない脆弱

さも生んだ。死に向き合えないということは、老いとも向き合えない。それが、高齢者など

、老いに近い者を社会から余計なものとして、排除する社会をつくっている。

 こうした死、老い、不浄さを排除する社会は、コマーシャリズムによって、されに増幅さ

れ、アロマや消臭剤といった商品情報に踊らされる結果となる。


 しかし、ここには、新たなストレスが生まれる。


 人間を感じる、臭いや不浄さを排除することで、人間的なるものを失い、他者と深く結

びつけないという孤独だ。また、耐性や免疫力がないために、人とも出会えず、出会った

としても、他者の真実を見極めるという人間を読む、人間力が極度に低下する。

 どこかで、不浄なものを排除したいとしながら、不浄なものが生活の中から抹消されるこ

とで、人や環境に適応できないという孤独を生きなければならなくなる。

 それでいながら、相変わらず、倫理や道徳、秩序といった正義にこだわり、自らの閉塞

感の根源にあるものに気づけない。

 たとえば、だれかがゴミ捨て場ではない場所に、あるときゴミを捨てると、次々にゴミを

捨てる人間が増えていく。

 ゴミを捨てるだれもが、それがいけないことであるという倫理を持ちながら、不浄さの許

される世界をみつけると、そこにあっという間に、人が集中するのは、こうしたストレスのひ

とつの現れなのだ。

 自己を振り返れば、決して、純潔でも、純粋でもいられない、生物としての不浄さを抱

えながら、他者に対して、厳しく裁断するという精神は、こうしたことによって日常化してい

る。政権支持率が短期間でめまぐるしく変わるのも、ひとつ中国との関係で問題が生まれ

ると、それだけを取り上げて、中国人差別をする浅薄さも、こうした事情によっている。

 清潔社会の中でしか生きられない、脆弱な人間が、自己の人間的脆弱さ、それによっ

て導いている、手前勝手な正義によって、他者をさげすみ、自己を保身する。

 それほど、人間として汚れた魂があるだろうか。


リストへ            ページトップへ▲