第5回  柔らかな強権主義の誕生                     


 社会倫理や法制度が機能不全なのではないのかという不安が社会に醸成されたとき、「心情と正義」のパラドックスが起きるというお話をしました。では、それは、どのような姿になって現れるのでしょう。

 道路交通法の改正で、今月から駐車違反の取締り強化が全国一斉に開始されました。それを可能としたのは、違反車両取締の民間委託、すなわち、民間でできることは民間でという、小泉自公連立政権が進める、構造改革路線の産物です。警察機能を一部民間に委託してもよいという法制度の改正があって可能となったこの事案に関して、法務省や警察庁の言い分はこうです。

 殺人など重大事件が増加し、テロの危険にも晒されているため、日常のルーティンワークである駐車違反取締への人員確保が難しく、これを民間委託することによって、警察官をより有効に配置し、重大事件対策へ向けられる。つまり、この数年の検挙率の低下は警察官の数が追い付いていないからだというものです。

 しかし、警察権力を機能性・効率性という名において、分散化するというのは、単に検挙率向上のためのやむ得ぬ施策と言えるでしょうか。そもそも、権力というものは単にシステムだけ分散化したり、委託したりして機能するものなのでしょうか。

 集中から分散へというのはいわば、いまの時代のキーワードです。
 現在の大手自動車会社やIT関連企業、家電関連企業、銀行の高収益はすべて、大リストラによる企業のスリム化と効率優先の雇用システム改革、すなわち、雇用の流動化により、派遣や請負労働力といった手軽に採用できる労働市場を形成させた中で生まれたものに過ぎません。労働力の分散化であり、企業の機能の分化です。

 その結果生まれた高収益は、社員の給与、派遣・パートで働く人々の生活費を抑え、個人に高い負荷を与えることで高いパフォーマンスを生み出すという非人間的とも言える施策によって成立した蜃気楼現象のようなものなのです。鉄鋼、造船の好景気も北京オリンピック開催による鉄鋼需要の増大がその背景にあり、北京オリンピック終了後の重厚長大産業の将来は不透明なままです。つまり、どこにも確たる経済力の実体がない。

 小泉自公連立政権が進めた、規制緩和と株式の自由化という、既得権益の解放、いわば、権力の分散の恩恵を生きた時代の寵児たちが、一見、古い秩序を破壊し、新しい社会システムへの提言とその実践を行っているかのように見えながら、実は、企業の社会的責任や社会貢献という公意識が欠落し、バブル当時以上の拝金主義に塗れ、社会のモラルハザードを牽引するものであったことはいま次第に明らかになっています。

 昨年の市町村合併も三位一体による地方分権化の一つの動きですが、これが多くの問題を抱えていることはすでによく知られています。その背景にあるのも、権力を分けるという名のもとに、民間企業並みの機能性や効率性のみで権力の分散を図ろうとする意図によるものでした。

 権力を分散化するためには、現行の権力構造が持つ問題点を改善し、分化させた後もトータルバランスが取れるシステムを構築しておく必要があります。三権分立が機能するのは、その理想として、それぞれの権力が独自性と自立性を確保したときに実現するものだという留保付きの分立です。つまり、権力が分散される、分化されるためには、分散・分化された権力が自立性を持ち、かつ他の権力を互いに牽制し合える互角の立場が必要だということです。

 つまり、受け取る方も、受け渡す方にも権力というものに対する認識の高さと独自運用ができる能力が必要であり、民度の高さが要求されるということです。それによって、始めて、移行された権力と移行させた権力とに緊張感が生まれ、トータルバランスが機能するのです。

 現在、行政が民間を見習えと音頭を取り、進められている構造改革という名のシステム変更には、ほとんどすべてに置いて、この視点が欠落しているのです。歴史が示すように、劣化した現行のシステムをただ単に移行するというだけでは、権力が分散化された後、大きな弊害を生みます。

 つまり、中央権力が自己のシステム劣化を自己の力では解決できない、あるいは肥大化によってこれを検証し、修復するシステムを持ち合わせいないか、頭脳が追い付いていない場合、分散化することで問題の解決を図ろうとする。簡単に言えば、面倒くさいことは切捨てる。切捨てることで、規模が小さくなればそれに相応しい小頭脳が誕生し、そこで面倒くさい問題は効率的に解決できるはずだ、という発想です。そこに中央権力も想定できない空洞が出現する。

 これは、帝国の滅亡に見られる共通項です。末梢神経への感覚を喪失したとき、巨大国家、巨大組織の凋落が始まれるのは歴史的事実であり、普遍的な崩壊現象の姿です。

 中央権力が末梢神経をコントロールすることができなくなるとどういうことが起きるか。それはいま述べた末梢、すなわちローカルの壊死状態が生まれ、それを回復するのはもはやローカルの仕事だという切捨てが起こります。そうなると、末梢側は組織を残すために当然必死になり、壊死しかかっている患部を自分たちで治療しようとし始める。

 一見、自己責任という新たなルールの登場によって、活性化するように見えますが、その実体は、中央権力がその責任を回避するため、トータルバランスを放棄しているに過ぎません。にもかかわず、こうした場合、中央権力はその影響力をどこかに温存させようとする。何かあったときの責任は移譲された側、しかし、そのことにより何がしかの成果が生まれれば、それは中央権力の移譲という懐の深さによるものだという足場を残そうとする。

 この姿が、違反車両取締りに見られるような警察権力の委託、移譲の姿に顕著に見えるのです。

 この数ヶ月の間に各地で起きた殺人事件。その多くが近親者や近隣の顔馴染みによる犯行です。これまでも、「誰でもよかった」という通り魔的な殺人が頻発すると、安全であるために、地域を自分たちの手で守ろうという動きが登場しています。通り魔事件、拉致誘拐・連れ去り、監禁事件を抑止するためには、事前から地域を自警し、犯罪抑止を民意の手で行うしかない。とだけしか、考えない人々が一機に名乗りを挙げる。

 それが近隣住人の犯行となると、地域そのもののあり方を根底から考え直す必要が出てくる。と考える人々が登場する。警察力では介入できない部分に住民の意思や住民の合意の下なら、介入できる。そう考え、それを当然のこととして、地域を再編する人々が現れるのです。当然、そこにあるのは、威圧や監視によって再編ができるはずだという単純な考え方です。

 現実に、いま各地で、警察権力ではなく、市民の自警団や地域パトロール運動、軽犯罪撲滅運動が自発的に誕生しています。そうした動きの多くは、自分の地域を自分の手で守ろうという善意であり、地域再生によって市民同士の絆を回復し、よき地域を創造しようという善良さです。

 しかし、その背後にあるのは、やはり「心情」なのです。心情から発するものであるがゆえに、善意であり、善良さであり得るわけで、それが、権力の移譲がより加速する、あるいは、権力が機能不全を押し付けるということが生まれると、そこに権力も予想できない、パラダイムシフトが起きてしまう。

 なぜなら、そこには、トータルバランスを考えられる頭脳は存在せず、自分たちの地域さえ安全であればよく、そのためには、「心情」として受容できないもの、怪しきもの、怪しくはなくとも、それらしく見える、考えられるものはみなの力で排除しようとするようになります。

 威圧や監視が自分の身近に出現したどうなるか、ちょっと考えれば子どもでも答えがでることを何のためらいもなく、単純に履行する。

 たとえば、新宿に監視カメラが設置され、強引な客引きなど暴力団の動きを表向き封じ込めることはできる。しかし、威圧や監視の眼を逃れる術はいくらでもあり、新宿がダメながら池袋、上野、鶯谷、あるいは地方といくらでもあたらな隠れ家は見つけられるのです。

 つまり、沖縄の基地問題のように、基地はよくないが、自分たちの町に来られては困るという類の対応に過ぎない結果、威圧や監視の対象であったものは、アングラ化するかより分散するか、あるいは、平然とした美しい顔をして、ある日通り魔事件を起こすのです。

 共謀罪は今国会では流産しましたが、テロ防止法の批准の延長に共謀罪を国会の採決にかけようとした背景には、権力が今後、それを分散化して行く中で、警察権力の移譲をしなくても、こうした市民の善意を背景に、やさしい顔をした市民監視を行いやすくするためです。法制化によって、それを一挙に全国、網を掛けてしまえば簡単だという実にわかりやすい発想です。

 一見、公権力にとって、とても都合のいいこの構造は、実は、先ほど述べた空洞化、落とし穴がある。疲弊したローカルには、実は不満や怒りが醸成されています。その不満は、斎藤貴男が『ルポ改憲潮流』(岩波新書刊)でアメリカの市民自警団に取材しているように、“ヘイトクライム”(差別が憎悪に変質し、差別対象者への排除と暴力が生まれるクラッシュ状態)を起こす。

 わざわざアメリカの例を挙げるまでもなく、陰湿化している学校や企業団体内のいじめや排除の姿を見れば一目瞭然なのです。威圧や監視はする側、される側がはっきりしない。不明です。そこに高いストレスが生まれれば、当然ガス抜きが必要です。そこに明らかに弱者と見えるものへの暴力が生まれる。これはほぼ人間の悲しき生理と言っていい。

 また、不満や怒りが、社会システムや国家のあり方へ転用されると強い国粋主義が登場してきます。わが地域を守り、国を守るという志向性です。背後に不満や怒りを持つ、そうした心情は、権力がコントロールできるようでいて、やがてできなくなります。民意という伝家の宝刀が心情を強い根拠として、実は疲弊していた中央権力の空洞を突いてくるからです。

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